いま、公共の場でのマナーの悪さが問題となっています。昔から、「いまどきの若い者は」という言葉はよく耳にします。 しかし、最近では、道徳観の欠如が一般社会に広がってしまい、若い者だけに限られたものではなくなってきてしまいました。父の信仰心の影響ではありませんが、私はこの国を思うとき、「この国のバックボーンはどうするのか」と考えます。その昔、伊藤博文公も明治憲法を作るときに一番悩んだのが、憲法と、それと対になる精神的主柱なるものです。 西洋には、キリスト教というバックボーンがあります。
  しかし、当時の日本には、その大きな柱に成り得るべきものがありませんでした。そこで伊藤公は天皇制をそのバックボーンにしようとし、また教育勅語を作りました。ところが、戦後、この両者は失われ、それらに代わるものがありません。その欠如が、今日の道徳の荒廃を生んでいる要因の一つになっているのです。ですから、教育基本法や日本国憲法の改正の議論が盛り上がっているいまこそ、これらと表裏一体である日本人の魂、バックボーンなるものをどうして創っていくのかを明確にしていかなければならないと思っています。
  数学者であり、我が国固有の道徳観や情緒、形の大切さを、著者『国家の品格』で訴えておられる藤原正彦さん(お茶の水女子大教授)が、その書の中でいろいろと説いておられます。
  その中でも、私が特に共感を覚えたのが、「人間にとって最も重要なことの多くが、論理的に説明できない」という一説です。
  十年前のことだそうですが、日教組の教研集会で、傍聴していた高校生が「先生、なんで人を殺してはいけないのですか」と質問したそうです。すると、そこにいた先生達は、誰一人として論理的に説明できなかった。
  これを聞いた文部省では、「人を殺してはいけない論理的理由」をパンフレットに作成している―と新聞に載っていて、これを見た藤原先生は笑ってしまったと、その著書に書かれているのですが、これは、私には笑えない話です。どうして「人を殺してはいけないか」「だましてはいけないか」ということを、理論的に説明すれば、反対意見も考えられるわけです。屁理屈は、挙げようと思えばいくらでも挙げることができる。
  しかし、それはあくまでも“してはいけないこと”。 道徳とは一種の強制であって、論理的・合理的に説明できるものではないと断言する藤原先生のおっしゃるように恥を知り、卑怯な行いはせず、もののあわれを感じ、惻隠の情をいかに育んでいくか。子供のときからしっかりした躾をすることが大切になるわけです。
  私は、中国の歴史がとても好きです。というのも、いま挙げた「惻隠の情」について、孟子は、これを「仁」の原始形態であると、すでに説いています。日本に伝わっている数々の教えの原型は孔子、孫子、孟子、荘子、老子、荀子などに拠るところが非常に大きいのです。
  私は、作家・宮城谷昌光氏の著書を愛読しているのですが、彼の作品は古代中国に素材を求めたものが多く、私の興味を惹き、そして人生の指針を示してくれます。
  最後に、私が最近、最も感銘を受けた彼の書から、その一説を紹介したいと思います。

  『奇貨居くべし 第五巻』(中央公論新社)
  私は執政の席から退いた。しばらく秦の政治は醜悪になるかも知れぬ。その分だけ、中華の統一が遅れる。が、やむをえぬ。わたしは天命に順う。天命とは民意でもある。天が命じ、民が望むように生きるしかない。耐え忍べ、といわれたら、黙ってそうする。ただし、わたしの沈黙は退歩ではない。道をゆくということは、止まる所があるということでもあり、それをもたぬ歩行には、道がない。道をゆかない六頭立ての馬車は、道をゆく鼈(スッポン)に及ばない。私の旅はあてどない放浪になりかけていたのに、孫先生の偉さは、英才ばかりを教育せず、わたしのような蒙味で魯鈍な者にも、努力をしつづけることによって、英才にまさること教えてくださったことだ。たとえば、道は近くにあっても、行かなければ至らないし、小さな事でも、おこなわなければ成らない、というような教えには、先生の勇気が込められている。人に優劣があるとすれば、先生は、為すかあるいは為さざるのみ、とおっしゃった。人の差とは、やるかやらないかの差にすぎぬ。(本文より抜粋)

仁、智、徳、礼、法、道、忠、孝、義などを交えた歴史を参考に、これからも、この国のあり方を考えながら邁進していきたいと思っています。


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